三宅なほみさん
ごめんなさい。4月20日付のメールになんの反応もしないで。
まさか、病状がそんなに悪化しているとは考えもしませんでした。末期がんであることはそのことがわかったときに教えてもらっていましたので承知していました。でも、1年前にお会いした時も元気そのものでした。それで三宅なほみは末期がんさえ克服してしまうのではないかと思い込んでしまいました。だから、この夏のある研修会の基調講演をお願いしたのです。しかも、それを即座に快諾してくれましたものね。
4月20日付のメールは、「教えて頂きたいことができました」という件名で、「8月に再び講演のご依頼を頂きましたことに少し気を良くしまして、一件教えて頂きたいことがございます」と始まっています。続けて、「Chomsky が考案、提唱した competence と performance について改めて教えて下さい」と書かれていました。添付されていたファイルは20行程度の短い文章でした。メール本体は、「この考え方が、大津さんからご覧になって、どの程度妥当性がありそうか、全く危ないか、これについて極簡単に書こうとした断片を添付させて頂きますので、お時間を頂けるようであれば、コメント下さい。まずはNGかどうかお返事頂き、後ほどお時間のある時に理由などコメントあるいは解説あるいは「これを読みなさい」指示を頂くので結構です」と締めくくられていました。
すぐに読ませてもらいました。チョムスキーの用語法とは違うけれど、考え方は相通ずるものがあるというのが直後の反応で、その1行だけでも返信しようかと思いました。ただ、せっかく、反応するなら、きちんと文章にしてからと思い、なほみさんの文章をプリントアウトしたものをずっとバックパックに入れてありました。
なんとか連休明けにはご返事をと思いつつ、夏の基調講演の詰めもあるから、6月に入ったら、一度東大へ出かけて、久しぶりに夕食でも食べながら、自由に意見交換をしようと思い始めていました。なほみさん、ごめんなさい。
「これを読みなさい」ということであれば、やはり、Aspects of the Theory of Syntax (1965, MIT Press) の第1章ということになると思います。さらに、今年になってから出版された同書の「50周年記念版」に付された、チョムスキー自身による新たな「序」を併読したらもっとよい。それだけでも伝えればよかった。
悔いというのはこんなものなのでしょう。波多野誼余夫先生が逝去されたときに感じた空虚さとはちょっと違った悔しさを感じています。
もう少し時間が経って、心が落ち着いたら、また書きますね。
大津由紀雄 2015年5月31日
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