わたくしは立教中学校(池袋)、立教高等学校(志木)、立教大学(池袋、経済学部)と立教学院で10年間を過ごしました。受験勉強に煩わされることなく、充実した日々を過ごせたことはわたくしにとって大きな財産になっています。
中でも、立教中学校、立教高等学校でたくさんの個性的な先生がたと触れ合うことができたことはいくら感謝してもしきれないものがあります。専任の先生がただけでなく、非常勤の「講師」という肩書の先生がたからも多くの刺激を受けました。そのお一人が高校で現代国語を担当していただいた加藤守雄先生です。たしか、2年生のときだったかと思います。
加藤先生が折口信夫(釈迢空)の高弟でいらっしゃったことは専任の先生たちから何度も聞かされていましたが、《偉い先生に教えてもらうんだ》程度の意識しか持ち合わせていませんでした。
教室に現れた先生は178センチもある大男で、生徒たちからは「モンスター」というあだ名で呼ばれていました。いまネット上で画像検索をして出てくる(たぶん、晩年の)お姿はわたくしのイメージとはかなりかけ離れています。そこで久しぶりに高校の卒業アルバムを引っ張り出してみると、冒頭に掲げたお写真が出てきました。これぞ、わたくしの知る「モンスター」です。
授業はほかの先生の国語の授業とは幾分、違いました。いくつかの語彙について、先生のお考えをかなり詳しく解説してくださるのです。古典の知識も豊富なので、聞く側に知的好奇心さえあれば、とても楽しい時間でした。読解については《好きなように、感じるままに読めばいいんだよ》といった感じで、特定の解釈を押しつけるようなことはなく、それがまた加藤先生の大きな魅力でした。
問題は試験で、どんな問題が出るか予想がつきません。最初の試験の時は不安でしたが、大きな文字で書かれた問題は普段の授業の様子とまるで変わらず、考えたところを自由に書くことができるものでした。
文学作品を取り上げることが多かったように記憶していますが、文学の楽しさ、おもしろさを教えてくれたのが加藤先生です。
先生は(記憶が正しければ)レコード大賞にも関係しておられ、休み時間に、わたくしが「都はるみはいいですよね」と話しかけると、「顔はともかく、歌はうまい」とおっしゃって、隙間いっぱいの前歯を見せて、笑っておられたのを覚えています。最後の授業の後、教科書にサインをねだると、「都はるみのファン 加藤守雄」と書いてくださいました。大切にしていたのですが、今回探しても出てきませんでした。残念です。
ごく簡単な年譜を以下に添えておきます。
大正二(1913)年十一月二日 父土井国丸、母ぎんの三男として名古屋市に生まれる。
昭和六(1931)年四月 慶應義塾大学経済学部予科に入学。同級に、池田弥三郎・井筒俊彦がいた。
昭和九(1934)年四月 池田と国文科に進み、折口信夫に師事。
昭和十二(1937)年三月 慶應義塾大学文学部国文学科卒業。
昭和十二(1937)年四月 同大学院に入り、十六年まで在籍。
昭和二十九(1954)年四月 立教高等学校講師。三十年三月まで在職。
昭和三十一(1956)年四月 再び立教高等学校講師。五十四年三月まで在職。
昭和三十八(1963)年四月 大津由紀雄、立教高等学校入学
昭和四十一(1966)年四月 大津由紀雄、立教高等学校卒業
昭和四二(1967)年六月 『わが師 折口信夫』を文藝春秋から刊行
昭和五十四(1979)年九月 『折口信夫伝---釈迢空の形成---』を角川書店より上梓
平成一(1987)年十二月二十六日 肺癌のため死去。事年七十六歳。名古屋市八事の 加藤家墓所に納骨。
(長谷川政春氏作製の年譜の一部に西暦年号と大津由紀雄関連の事項を加えた)
加藤先生のお名前が世間に広く知れ渡ったのは1967年に折口のとの錯綜する師弟関係を描いた『わが師 折口信夫』(文藝春秋、のちに、朝日文庫)出版されて以降と思います。
折口が同性愛者であることはかなり知れ渡っていたことのようですが、加藤先生はこの本の中で、折口からの求愛を断固として拒み、心を揺さぶられながらも、そのことで師としての折口の評価が変わるわけではなかったことを見事に描出しています。
拒む弟子に対して執拗に求愛を続ける師の姿には見苦しさしか認められませんが、「「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の問の愛情よりも、純粋だと思う。変態と考えるのは、常識論にすぎない」きっばりした語調だった(『わが師 折口信夫』p.208)」という折口のことばは理性的とも受け取ることができます。
ちなみに、上に掲げたのは朝日文庫版の表紙ですが、その挿絵についてこんな解説が付されています。「カバーに使用した挿絵は、折口信夫自筆で、「那須帖」というメモ帖に画かれたものである。加藤守雄に似ているといわれている」。
ついでですが、ご自身の長身ぶりについてこんなことを書いておられます。「[折口]先生は、私が洋服を着ているのを見て、「これをお着」と言って、ドテラを出して下さった。「次から、着物を持って来ます」と言っても、「いいじゃないか。これ着なさい」とおっしゃるので、浴衣に重ねて着た。先生のか、客用のかわからないが、百七十八糎の私には、つんつるてんだ」(『わが師 折口信夫』p.37)。
最後に、折口門下の加藤先生がどうして立教高校で教えることになったのかですが、いろいろと調べてみましたが、わかりませんでした。ただ、新たな発見として、折口が立教高等女学校で講師として教壇に立っていたことがわかりました。なんと、そのことが加藤先生ご自身がお書きになった『折口信夫伝---釈迢空の形成』(1979年、角川書店)に書かれています。
---
折口信夫が若かったころ、当時築地にあった立教高等女学校の教壇に立ったということは、一般にはまるで知られていない。(「立教高等女子学校の教え子---杉本静子女史聞き書き」『折口信夫伝---釈迢空の形成』p.233)
---
では、なぜ、折口が立教高等女学校で教えることになったのか。加藤先生の調査過程とその結果はこんな具合です。
---
そのくらいのことまではわかったが、年譜に書き加えるためには、もう少しはっきりさせて置く必要がある。立教高等女学校の後身である立教女学院にたずねたら、何か記録が残っているかも知れない。そう考えて、立教高等学校のチャプレンの宅間信基先生に、紹介をお願いした。宅間師は親切に、さっそく立教女学院の小川清院長にお電話して下さって、「折口さんが、教えられたことがあるというのは確かだそうですが、資料のようなものは、何も残っていないそうです」という返辞であった。わたしが少しがっかりしていると、宅間師が「そのかわり、折口さんの講義をきいたという女の方がいますよ」と言葉を継がれた。(「立教高等女子学校の教え子---杉本静子女史聞き書き」『折口信夫伝---釈迢空の形成』p.236)
(加藤)いったい誰の紹介で、立教へ行かれるようになったんでしょう。いちばんそれがわからないんです。
(杉本)わたしもそれなんですよ。むしろ、それをお伺いしたいと思っていたんです。 国学院大学といえば神道関係の学校でしょう。そういう学校をお出になった先生が、立教へ来られたということが不思議なんです。今はずいぶん柔らかくなりましたけれど、その頃の立教女学校は、副校長のへイウッド先生が、コチコチの信者の方ですからね。そういう方が、どうして国学院の方を引っ張って来られたのか、私にも疑問なんです。(「立教高等女子学校の教え子---杉本静子女史聞き書き」『折口信夫伝---釈迢空の形成』p.242)
冗談ひとつおっしゃるわけでもないし、顔も上げないで講義なさるんです。名簿の順に教科書をお読ませになって、「よろしい」とか、「これはどういうふうに書きますか」とたずねて、生徒が答えると、「いいえ、僕ならこう書きます」、そういうふうにおっしゃっていたんです。でも、「ハイ」と言っても、顔をお上げにならないから、誰が読んでいるかわかんないでしょうけど。(「立教高等女子学校の教え子---杉本静子女史聞き書き」『折口信夫伝---釈迢空の形成』p.238)
---
折口が逝去したのが昭和二十八(1953)年、加藤先生が立教高校で教え始めたのが昭和二十九(1954)年、『折口信夫伝』の刊行が昭和五十四(1979)年です。折口の紹介でという可能性も考えられなくはありませんが、そうであれば、なぜ折口が立教高等女学校で教えることになったかについて加藤先生がなにも知らないはずはないだろうと思います。この辺りの事情をご存知のかたはぜひご一報ください。
Comments