チョムスキーといえば、生成文法に対する誤解は50年代からずっと絶えることがありません。以下に引用するのは、最近出版されたある本からの引用です。一切コメントも付さず、原文のまま、お示しします。ご自身の思考力を試してみてはいかがでしょうか。
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[チョムスキー—大津]は、生成文法という新しい文法理論を提唱し、無限の言語資料を基礎にした言語能力(Linguistic Competence)の存在を仮定して、それを脳から生み出す規則性を探ることが言語学の課題であると主張した。この理論は圧倒的に言語学研究の興味を引き、一方、構造主義言語学は有限な言語材料をコントロールする言語理論の弱点を突かれて、次第に興味・関心が失われていった。ちなみに、有限の言語資料とは、実際に表出されている文や単語のことで、その際に利用する文法はいわゆる伝統文法であり、学校文法である。それに対して無限の言語資料とは、ネイティブが無限に頭から紡ぎ出すことができる言語のことで、それをコントロールできる能力を生成文法と考えるのである。
しかし、生成文法は、人間の脳の中で働く言語能力が文法規則から成り、その規則の順序が厳密に適用されると考えるのだが、学校教育において、この考え方に基づいて外国語を教えようとすると、あまりに規則の運用が複雑で、あり、実用にそぐわないことが明らかになっていった。
また、チョムスキーが外国語教育理論について関心がないことを明確に示したため、現場の英語教師たちは構造主義言語学者が唱導したような言語教授理論に頼ることができず、自分たちで教授法を研究する方向に向かっていった。そのときに考えられたのは、外国語教育理論は一種の経験科学であり、仮説と実験と証明が複雑な経験を経て成立するものであるから、純理論的な外国語教授法は成立しないということであった。したがって、理論的に言えば、学習者の数だけ教授法や学習法が開発されなければならないことになる。しかし、それはあまりに非現実的である。
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【付記】 ついでなので、こんな記事もお読みいただけますか? http://www.nishinippon.co.jp/nnp/desk/article/77391
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