院生の永井です。
今年度第一回目のプロジェクト言語教育(Project Language Teaching:PLT、以下PLT)の会合が、6月26日、27日に開催されました。
PLTとは「言語力の本質とその育成方法についての実質的な研究を行い、言語教育の改善に資すること」を目的としたプロジェクトです。(詳しくは大津研究室のHP左方にある「プロジェクト言語教育」をご覧ください。)
今回の会合では、前年度の成果と課題について検討した後、研究代表者である大津由紀雄先生(慶応義塾大学)が、「言語教育の全体像を明確にする」という今年度の大きな課題の一つを踏まえながら、「言語教育の構想」というテーマにて発表をしてくださいました。
PLTで意図されている言語教育は単に「母語教育と外国語教育を足し算したもの」では決してありません。単に足し算するという考えであれば、体育教育は「マラソンとサッカーとソフトボールとバレーボールと…etcを足したもの」ということになります。ですが、この考え方は何となくおかしい、何となく物足りないと、みなさんも思っておられるのではないでしょうか。では、足し算的思考には一体何が欠けているのでしょうか?
それは、端的に言えば、個々の事項を有機的につないでいる「共通の基盤」への認識です。足し算的思考は、元になる言葉(「体育」)から連想される事項(「マラソン、サッカー」)を単に列挙したにすぎません。ではここでいう「共通の基盤」とは何かということが問題となりますが、例えば、体育教育では「基礎的な体力を形成する」や「ルールを守ることの重要性を理解する」といったことになるでしょうか。学校という文脈を踏まえるならば、これらの共通の基盤を踏まえて、それらを達成するために必要なスポーツが選ばれていると考える方が自然でしょう。なぜなら体育教育が単に各スポーツを足し算したものであるならば、そこで生徒に求められているのは、マラソンをすることであり、サッカーをすることであり、バレーボールをすることであり、つまり、ただそのスポーツをすることだけを求められていることになります。その場合、なぜそのスポーツが選ばれているのか、ということになると、これはもう教育内容を選定する人の個人的な趣味という以外に説明するすべはありません。このように、足し算的思考では、何のために個々の事項が選定されているのかが見えてこないのです。
それでは、以上のことを踏まえ、言語教育について考えてみましょう。問題となるのは上に述べたように「共通の基盤」ということになりますが、言語教育においてそれは一体何でしょうか?ここから先には論理的には様々な可能性が考えられますが、プロジェクト言語教育ではその基盤を「ことばへの気づき」としています。つまり、「ことばへの気づき」を基盤として、母語教育と外国語教育が有機的に連携するということです。
日本にいる限り、外国語は教室で意識的に学ぶことになりますが、私たちが母語を学んでいく過程において、意識的に、例えば文法規則などはほとんど習いません。ですが、いつの間にか私たちはみな母語を不自由なく使えるようになっています。あまりに不自由なく使えるために、母語には法則性などないのだ、と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そうではありません。確かに「太郎が本を読んだ。」という表現は、「本を太郎が読んだ」とも「太郎が読んだ、本を」のようにも言えるため、日本語は語順の自由な言語である、と思われるかもしれませんが、それでも「を本が太郎読んだ」は日本語としては非文法的です。やはり、私たちが意識できないところで、何かしらの規則が働いていると考えざるを得ません。このことを考えると、私たちが母語を使えるということは、何かしらの文法のようなものを知っているということになるのですが、実際にはそれらはほとんど無意識的な知識です。ですから、私たちは日本語を間違いなく「知っている」のに、日本語については知らない(=意識できない)という不思議な状況におかれています。ですが、それを逆に考えると、私たちには母語である日本語の世界、そしてさらには「ことば」の世界そのものに「気づく」ための材料が頭の中に豊富に納められているとも考えられます。もちろん、普段何気なく生活を送っていて、たまにことばについて不思議だなと思う側面を発見することもあるでしょう(このような発見が多く、ことばの不思議さに魅了された方々の中でもその最たる人々がいわゆる言語学者ともいえるでしょう。)。ですが、実際には、それらの材料は無意識ですから、私たち人間の大部分は、それらの存在に「気づく」ことが出来ませんし、仮に「気づく」ことが出来ても、その場だけの興味で終わってしまいがちです。そう考えると、本当のことばの奥深さを知るためには、ある意味で外からの意図的な「働きかけ」が必要であると言えます。このことがまさに、言語「教育」の基盤が「ことばへの気づき」であり、しかもそれは本質的に教育されなければならない(ここでの「教育」のイメージは「教え込む」のではなく「支援する」というものです。)ということへの大きな根拠となります。
「気づく」ということは不思議さを発見することでもありますが、それだけでなく、頭の中に納まっている無意識的な「材料」を「意識できるもの」へ変化させる作用を持ちます。そして最終的には、それがもとになり、私たちは、ことばを今まで以上に「効果的」に扱えるようにもなります。当たり前ですが、何かを「効果的に」使うとなれば、それは意識的なものでないと、「効果的」には使えません。その何かがこの場合は「ことば」になるわけです。今まで無意識だったものを意識に上らせ、それがもとで効果的な運用が可能になり、いわゆる子どもの「ことばの力」が高まります。さらに、無意識から意識に変わる過程では「気づく」ことが必要ですが、この「気づき」によって、子どもたちに感動が生まれ、それが子どもたちのことばへの関心をも高めます。私たちでも何かに「気づく」という経験をすると、「アッ」という感動が生まれ、そのことについてもっと知りたいと思うようになるのですから、好奇心のかたまりである子どもたちに、「ことばへの気づき」が与える影響は測り知れません。そのようなことばへの関心・興味が高まれば、ことばの学習にも意欲が出てくると考えることは難しくはないでしょう。
このような「気づき」は、母語でも外国語でも育成することが可能ですが、外国語で「気づき」を育む場合、もちろんその前提に、母語との比較・対照がそのねらいとしてあります。ですが、その実現のためには、まず母語がどのような性質を持っているかを子どもたちが理解していなければならないことは明白でしょう。当たり前ですが、AとBを比較・対照しようと思うならばAとBの性質を理解していない限り、比較も対照もしようがありません。ここでの議論とは少しずれますが、しばしば、外国語の授業では言語の多様性を子どもに理解させることが重要だ、という旨の発言を耳にします。確かにそのとおりなのですが、そもそも多様性と言うからには、まず多様なものの間に共通の基盤が無いと、多様性自体が成り立ちません。共通の基盤が無ければ、多様性といっても、そもそもが違う性質のものですから、実際は多様でも何でもなく、ただ別個のものだということにすぎないからです。議論をもとに戻すと、例えば小学校段階では、後に外国語を用いてさらなる「ことばへの気づき」を育むことを考慮し、母語を用いて子どもたちを母語に気づかせておくことがまず求められます(もちろん、小学校においても、外国語を用いて気づかせることは可能でしょうが、母語への気づきが十分でない状況では、めざましい成果は上がらないでしょう。)。そして、その母語での「気づき」を利用して、今度は中学校段階で、外国語を用いてさらなる「ことばへの気づき」を育成します。そうすると、母語の性質は小学校段階において、ある程度理解しているわけですから、外国語との比較・対照が実際に可能となり、そうして初めて言語の多様性と普遍性にも気づくことができるわけです。さらには母語と外国語との比較・対照で得られた「気づき」が、再び母語にはねかえり、母語の「気づき」がさらに育成されることも十分考えられます。このようにスパイラルに育成された「ことばへの気づき」は子どもの母語を扱う力やことばへの関心を高めるだけでなく、ことばについての意識的な学習を多分に含む外国語学習そのものにも役立つと考えられます(私としては、特にこの点に関心があります。)。
少し長くなってしまいましたが(実際はまだまだ論証すべき箇所は数え切れないほどあるのですが)、PLTがなぜ「ことばへの気づき」を言語教育の共通の基盤とするのか、その意味が少しでも理解していただけましたでしょうか。私のこのような拙い説明でも、言語教育の基盤を「ことばへの気づき」とする必要性・妥当性について、みなさまが少しでも納得してくだされば、PLT報告者として、その役割を少しでも果たせのではと思います。PLTでは実際に、このような視点からの言語教育のあり方が模索されています。とても壮大なプロジェクトだと思います。みなさんも今後のPLTの動向について気になっておられるかと思いますので、大津研ブログでは随時、PLTの経過報告を続けていきたいと思っております。
PLTのメンバーの方々は全員、「ことば」について並々ならぬ感性の持ち主で、各自が「ことば」の教育について一家言をお持ちになっておられます。各メンバーの思いが絶妙に組み合わさった言語教育の構想とは、一体どのような様相を呈するのでしょうか。この問いに対する答えは、今年の秋に、シンポジウムもしくは講演会の形で具体的に実現する予定です。みなさま、ぜひご期待ください。
Comments