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原口庄輔さんをお送りしてきました

更新日:2020年3月21日


この週末、9日土曜日と10日日曜日に、静岡県富士市の鈴由会館で、故原口庄輔氏のご葬儀が執り行われました。通知には「通夜」「告別式」とありましたが、両日とも、ご遺族、明海大学、それに、音韻論関係者を中心とする学会関係者のコラボレーションによる、「原口庄輔さんをお送りする会」という形で、原口さんと触れ合いのあった方々の手作りの、暖かい集まりでした。すべて原口さんのご人徳によるものです。 会では、奥様の友子さんをはじめ、ご子息、ご令嬢のおひとりおひとりが挨拶をなさいました。ご家庭のなかだけで見せた原口さんの姿が偲ばれる、よいお話を伺いました。 たくさんの弔電が寄せられていましたが、音韻論研究仲間のマイク・ケンストビッチさん、MIT院生時代の指導教授のお一人だったノーム・チョムスキーさんからのものもありました。 10日の会終了後、斎場までお供させていただきました。 富士山に見守られるように過ごした2日間でした。歳はわずかしか違わないのですが、学問の世界に入ったのは原口さんのほうがずっと早く、わたくしが入門したときには、すでに原口さんは「有名人」でした。ですから、学問上は大先輩と言っても過言ではありません。でも、はじめて直接ことばを交わした瞬間から、《あ、この人とはかなり濃密なおつきあいになるな》と予感させるものがありました。原口さんは「大津君」「大津君」と呼んで、とてもかわいがってくれました。兄のような存在なのかなあ。こちらは、ずいぶんと軽口を叩かせてもらいました。でも、原口さんはそれを軽くいなしながら、楽しくその場を盛り上げてくれます。「愚弟賢兄」の典型ですね。 余談ですが、原口さんはわたくしと2人の時は「大津君」と呼んでくれましたが、人前では「大津さん」でした。そのあたりにも、細かい心遣いを配ることができるかたでした。 陳腐な表現ですが、心にぽっかりと穴があいてしまいした。もう、新浦安に行っても原口さんとは呑めないのかと思うととても切なくなります。 原口さんには、名著(いや、「迷著」かな?(^^))に『プラス思考のすすめ—人生を楽しくする秘訣』とその続編があります。 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E2%80%95%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A7%98%E8%A8%A3-%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%8E%9F%E5%8F%A3-%E5%BA%84%E8%BC%94/dp/4915856070/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1339371566&sr=8-1 http://www.amazon.co.jp/%E7%B6%9A-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E2%80%95%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A7%98%E8%A8%A3-%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%8E%9F%E5%8F%A3-%E5%BA%84%E8%BC%94/dp/4915856275/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1339371566&sr=8-2

原口さんのご逝去をプラスに転じる。「大津君にできるかなあ、はっはっは」という原口さんの声が聞こえてきます。うーん、顔も見えちゃうんですよね。声だけにしてください、原口さん。

【付記】10日の会で、廣瀬幸生さんと上田功さんがそれぞれ弔辞を読まれたあと、わたくしも弔辞を読ませていただきました。掲載したのはその改訂版です。弔辞の「改訂版」というのも妙ですが、9日に加筆した部分、読みながら、アドリブでつけ加えた部分、帰りの新幹線の中で加筆した部分を反映したものです。

のちほどpdf版を載せます。現在掲載のjpeg版だと、ページごとに別ファイルになっていて読みにくいので、臨時の措置として、テキスト版も以下に貼り付けておきます。

【追記】(2012/6/11) 弔辞のpdf版はこちらをご覧ください。




弔辞


原口庄輔さん


 原口さん、ひどいじゃないですか。わたくしにこんなにはやく弔辞を読ませるなんて。わたくしが心のなかで密かに準備していたのは、二年後、原口さんが明海大学を定年でご退職になるときのパーティでのスピーチだったんですよ。


 友人が亡くなると「思い出が走馬灯のように駆け巡る」と言いますが、ほんとうにそうなんですね。

『英語青年』ではじめて「原口庄輔」というお名前に接し、どんな方なんだろうと興味を覚えたこと。

日本英文学会のシンポジウムで、話し始める前に、いきなりコーラをラッパ飲みしたお姿にあっけにとられたこと。

原口さんの留学先でもあったMITに留学したとき、原口さんの指導教授であったモリス・ハレ先生から、「ショウはいつも飴玉をなめながら、寸暇を惜しんで研究に励んでいた。たった二年間で博士論文を書き上げた院生は後にも先にもショウしかいない」と聞かされたときのこと。

前半の絵柄は、みんな、学問がらみの想い出です。

 でも、後半はまるで違う。

はじめて筑波へ集中講義でおじゃましたとき、五日間、毎日、講義が終わると、大学会館に「大津君、終わったかな」と電話を下さり、当時はまだ数軒しかなかった、大学周辺の居酒屋に誘ってくださったこと。

 西山佑司さん、秋山怜さんと四人で三田の居酒屋に行き、原口さんは、西山さんから、生き方の問題点を指摘され、「ほれ」「ほれ」を連発しながら防戦一方だったこと。

 みんな酒がらみの想い出です。この種の絵柄なら尽きることなく語ることができます。もっとも、ここでは語れないこともたくさんありますよね。

 でも、振り返ると最終局面ということになってしまうのですが、最後はちょっとばかり違いましたね。

 いつも明海大学の将来のことを考えておられた。

最後に一緒にお酒を呑ませていただいたのはたしか、今年の二月でした。明海大学で集中講義をさせていただいたときのことです。新浦安の居酒屋ででした。そのときも、西山さんと三人でした。原口さんが、二期務められた学部長、研究科長を三月末に退任し、西山さんが四月から副学長に就任されるというタイミングでした。

重責をまっとうされ、ご退職まであと二年ということであれば、思い出話、自慢話に終始するのが普通でしょうが、原口さんはまったく違っていた。なんと、明海大学を中心に新たな研究プロジェクトを日本学術振興会に申請したいとおっしゃっていました。

そういう努力を続けていかないと、明海大学の研究伝統が絶えてしまうとおっしゃっていました。

そして、最後にお話をさせていただいたのは、この四月でした。明海大学のレストラン、マリーンズで、やはり、西山さんと三人でした。でも、このときはランチ。わたくしは午後から講義があるのでビールはありませんでしたね。

あのときも、明海の大学院生の自慢話をしておられました。「あの院生はよく勉強する」「あの院生はこの一年で非常に伸びた」良質の博士論文が書けるように情熱をもって指南を重ねる、きびしく、かつ、愛情のこもった指導をされている教授のお姿でした。

最後の数日、「ここで逝くわけにはいかないんだ」と思っておられたのではないでしょうか。原口さんの無念さが伝わってきます。

でも、安心してください。原口さんが明海大学で育て、世に送り出した研究者は立派に成長しています。院生も研鑽に、研鑽を重ねています。そして、原口さんが東北大学や筑波大学で一緒に学び、育てた研究者の方々もきっと明海の院生たちが立派な修士論文や博士論文を書き上げられるよう支援を惜しまないと思います。


 安井稔先生がその基盤を築いてくださった日本英語学会を今日の姿に育て上げてくださったのも原口さんです。

 安井初代会長のもと、初代事務局長として大いに力量を発揮されました。あのお仕事、原口さんのほかにこなせた方はいなかったでしょう。

 でも、あのときですら、一緒にずいぶん呑みました。二人とも若かったから、ずいぶんと危ないこともしましたね。

 二〇〇八年、当時の天野政千代会長の急逝という非常事態を受け、会長を継がれました。そして、事務局長を務められた田中智之さんとの、そして、のちに、岡崎正男さんとの二人三脚で、学会をその危機から救ってくれました。

年次大会の発表会場には、否が応でも目立ってしまう、あのいでたちで、扇子をあおぎながら発表に耳を傾ける原口さんの姿がいつもありました。

とくに、若い会員の研究に対しては暖かいまなざしで常に前向きな助言や講評を加えていましたね。若い会員のさらなる探求心を引き出し、未開の領域に果敢に挑戦しようとする夢をはぐくみ、英語学会の将来を確かなものにしようとの尽力が自然体で行われたことは会員全員の認めるところです。


 『プラス思考のすすめ』という本をお出しになったのは一九九三年でしたね。「人生を楽しくする秘訣」だなんて、いかにも原口さんらしい、際物っぽい副題がついていたので、《どうせ、いつもの原口節が書いてあるのだろう》と決め込んで、読みもせず、ソファの脇の小さいテーブルの上に置きっぱなしにしてありました。

 当時、七十歳だった義母が我が家に数日滞在したときのことです。ある日、わたくしが帰宅すると、開口一番、「由紀雄さん、この本を書いた原口先生という人はじつに立派なかただね。わたしもずいぶんと苦労を重ねて生きてきたけれど、この本を読んで、心が軽くなった」と興奮気味に話しました。わたくしが「原口さんは呑み仲間ですよ」と言うと、義母、曰く、「由紀雄さんもずいぶんと偉くおなりになったんだねえ。こんな立派な先生とお付き合いさせていただけるなんて」と。

 その数日後、原口さんにこの話をすると、満面の笑みで「ほれ、わかる人にはわかるんだ。大津君にはまだしばらくはわからないだろうけどな。はっはっは」と応えましたね。

 その義母も昨年のちょうど今頃、九十二歳で旅立ちました。向こうで会ったら、『続・プラス思考のすすめ』、読ませてあげてください。正編をわたくしがまともに読んでいなかったことを鋭く見抜いた原口さんが続編はくださらなかったので、我が家になかったものですから。


 あ、そうそう、新浦安の美浜に残っている十四代の一升瓶、呑んじゃいますからね。



二〇一二年六月十日

呑み友だち代表

大津由紀雄












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