『英語ノート』が事業仕分けの対象となり、「廃止」とされた。本日(2009年11月30日)付の読売新聞もその問題を大きく取り上げ、現場などでの困惑の様子を報告している。 この問題を考えるとき、はっきりと分けて考えなくてはならないことが2つある。ひとつは、『英語ノート』のような、教育政策と密接に結びついた教材、教具を事業仕分けの対象とすることの是非、および、是とするなら政策見直しの原則の有無である。もう一つは『英語ノート』という特定の教材に対する評価である。この2つを区別しないで議論すると、ことの本質を見損なってしまう危険がある。 この問題について、わたくしはつぎのように考える(わかりやすさを考えて提示の順序は上と逆にしてある)。
1 わたくしは(読売新聞に掲載されている関係者の発言のように)『英語ノート』が完成度の高い教材だとは決して思わない。実際、『英語ノート』を使うよう指示されて、どう使ってよいか困惑している先生がたも多い。それは「慣れ」といった問題ではなく、『英語ノート』に理念が欠けているからである。
2 『英語ノート』のような、教育政策と密接に結びついたものを事業仕分けの対象とすることについては慎重でなくてはならない。ここには議論が巻き起こっているダム建設事業の場合と同様の問題が存在する。わたくしは政策の見直しというものはあってよいと思うが、原則を立てずに見直しを認めてしまうと、政権交代ごとに「なんでもあり」の状態が生み出されることになる。 ダム建設事業の場合は今回の事態が関連するさまざまな問題を浮き彫りにする契機となっている向きがあり、評価すべき部分が認められるが、小学校英語の場合にも同じような状況になりうるかというと残念ながらそうも思えない。「一度決めたものを白紙にすると言われても困る」式の議論に終始するような気がしてならない。そうではなく、事業仕分けという原則に照らしたとき、『英語ノート』はそれでも必要だという生産的な議論を展開するよう努力する姿勢が関係者に求められているのである。
ちなみに、先ほど触れたようにわたくし自身の『英語ノート』に対する評価は低いが、文部科学省の(元)関係者は、『英語ノート』導入にあたって、電子黒板の導入とセットで考えていたものと受け止めている。電子黒板を使えば、英語が使えず、外国語指導技術も持たない担任であってもなんとか乗り切れると踏んでいたはずである。当初は電子黒板予算の削減をなんとか食い止めるべく、パフォーマンス能力に優れる直山木綿子教科調査官を動員して、「はーい、川端くん!」などとやらせていたが、電子黒板どころか、『英語ノート』本体すら予算が削られる危機に瀕することとなった。 そんなことをしてまでほんとうに小学校に英語を導入する必要があるのか、ここで再び冷静な判断が求められているのである。 なお、仕分け人の姿勢にも大いなる問題があったことは、評価者コメントを読めば一目瞭然である。ぜひ以下のページをご覧いただきたい。 http://www.cao.go.jp/sasshin/oshirase/h-kekka/pdf/nov11kekka/3-7.pdf この一連の展開で、12月19日に日吉で開催される慶應の暮れシンポの持つ意味が増大することとなった。大いに議論したい。 http://oyukio.blogspot.com/2009/11/blog-post_09.html
【追記】上記に対して多くの方からメールをいただいた。なかには、「こんなことにならないために小学校英語は教科化すべきだったのだ。いまからでも遅くはない、教科化しよう!」という流れになることを危惧するという、じつに深い読みをする方もいた。世の中、そういうものだと言ってしまえば、それまでだが、ここは青臭く、そんな可能性まで考えなくてはならないことを指摘されて「悲しかった」と日記には書いておこう。 この問題はテレビのニュースでも結構取り上げられていたが、『英語ノート』がないと格差が生じるという意見はともかく、あれがないと英語活動ができなくなってしまうという意見には驚かされた。そんな状況で小学校英語が始まってしまったことをもう一度考え直さないといけない。 教科化されていないいまなら、やり直せる! (12/01/09)
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